月
29
11月
2010
新しい評価のあり方―ジャーナル・アプローチの試み(広島大学 倉地曉美)
『アセスメントと日本語教育』(くろしお出版)を紹介します。
随分前のことになるが、私の授業をとっていた日系ブラジル人の留学生が、夜間、日系の人々を対象にした日本語教室を開いていると聞き、地域住民の一人ということで何度か出席し、授業を見せてもらったことがある。そこは、その当時から日本語教室というよりは、ポルトガル語が飛び交い、地域に住む日系の人たちの情報交換、悩み相談、外国人と地域ボランティアが交流の場として機能する空間だった。私はスペイン語もポルトガル語もできないため、誰が何を言っているのか理解できないまま、教室に入っていたが、その中に、いつも親について来る中学生と小学生の兄妹がいた。中学生の兄は明るくスポーツができるので、学校生活にすっかり馴染んでいたが、小学生の妹のほうは、学校に溶け込めないらしい。
そこで、留学生に通訳してもらって、私はその子とジャーナル交換(*1)をすることに決めた。彼女は漫画を描くのがとても上手く、当時流行のセーラームーンをノート一杯に大きく描いてきた。実は私は絵が得意ではない。しかし、彼女とのコミュニケーション手段は、当面絵しかないと思い、学生から漫画雑誌を借りて、勇ましいセーラームーンをノート一杯にトレースして返した。そんなやりとりが2,3回続いたある日、手渡されたノートには漫画は一切なかったが、それは大変衝撃的なものであった。そこには、「きらい」、「学校」、「クラス」、「いじめ」という4つの言葉が筆圧の強い鉛筆書きで繰り返し、繰り返し見開きのページにぎっしり書かれてあったのである。そばにポルトガル語で小さな字が書かれてあり、明らかに辞書を引き引き、万感の思いを外国語にして、紙面一杯に懸命に表現しようとした跡が見てとれた。
「外国人とジャーナル交換している」と言うと、「学習者の日本語レベルはどのぐらいならできますか」という質問が必ず出る。その次に出るのは、「相手から悩みを訴えられたときに専門的な知識がないと、良い解決法が提示できないのでは?」という質問である。共通媒介語がほぼ0に近い状態でも、気持ちを伝え合うことは可能である。悩み相談に関しても、女の子は、私がセーラームーンのように勇ましく学校に乗り込んで行って、快刀乱麻を断つかの如く問題を解決してくれると期待して、思いのたけをノートにぶつけたのだろうか。決してそうではないと思う。少女はおそらく親兄弟にも吐露できない積もりに積もった溢れる思いを、誰かに理解してもらいたかったのだろう。
コミュニケーションは言葉の使い方の正しさ、流暢さだけで決まるものではない、表現したい、理解してもらいたいという強い気持ちと、理解したいと思う気持ちが重なりあうか否かという点が最も重要である。それに、わが子の悩み相談はおろか、自分の問題すら解決できない専門家は山といる。どんなに豊富な知識や経験を身につけたところで、他者の悩みを即座に解決することなど、おいそれとできるものではない。
具体的にどんな返事を書いたか、はっきり思い出せないが、励ましの言葉を4つか5つ、考えに考えた末、同じように見開きのページ一杯に繰り返し、書き並べて彼女に送った。するとその次には、大きなハートのマークが力強く描かれた、可愛い女の子がにっこり笑っているなんとも優しい漫画が戻ってきた。しばらくして、その留学生から、女の子の両親が「娘は最近とても熱心にノートに何か書いている」、「ノートに書く時間は楽しいらしく、こんな機会が与えられてとても喜んでいる」と言っているということを伝え聞いた。
多分、女の子は自身の投げたボールに対して、相手がどんな反応を示してくれるのか、自分が伝えようとしたことを相手は理解し、しっかり受けとめてくれるのか、1週間の間待ち続け、懸命に辞書を引いて私の送ったメッセージを理解しようとし、そして理解してもらえて嬉しかったという気持ちを精一杯表現しようとしたに違いない。私は、それこそが相互理解に繋がるコミュニケーションの最も根幹になる部分だと思う。
正確さや流暢さを追求することが無為だと言っているわけではない。しかしコミュニケーションの最も大切な部分を抜きにした教育は子供たちにとって不本意で、空疎なものに違いない。伝えたい気持ちと受けとめる気持ちがしっかり重なり合う空間は、従来の評価制度でがんじがらめになった教師対児童・生徒の関係性の中からは、なかなか導き出せない。しかし既存の教育評価の枠を少しずらせ、教師や周りの大人が一人のひととして、生徒・児童の「表現したい」という気持ちに向き合えば、そこからより深い相互理解の世界が結ばれていく可能性は決して0ではない。
『アセスメントと日本語教育』では、私はジャーナル・アプローチという、従来の評価システムの枠から少し視点をずらせる工夫をすることによって、より豊穣な教育評価の方向性や、新しい教育の可能性が導きだされることを論じた。他の共著者も、それぞれの立場から、新しい教育のあり方、評価のあり方を求めて、教育実践の場で様々なアプローチに意欲的に取り組んでおり、多様な教育場面への応用が可能であると思われる。
現在、私の研究室でも学生が学校現場でフィールドワークをしているが、日本語教室の先生方も、外国人児童の日本語の産出能力向上の必要性を感じつつも、教科指導など日々のノルマに追われ、なかなか日本語のそれを引き出すまでには至らず、いろいろご苦労があるように漏れ聞く。しかし産出能力の欠如は、何も外国人児童・生徒に限った問題ではない。現在私自身はドイツでフィールドワークをしているが、ドイツの大学生たちのプレゼンテーション能力には目を見張るものがある。ドイツに長年暮らしている先生方にお尋ねすると、子供たちは幼い時から家庭でも、またギムナジウム(中・高等学校)でも、自分自身の考えを言葉にしてきちんと伝えるための徹底的なトレーニングを受けているという。
日本の教育現場では、上からのお達しで「心のノート(*2)」を使ったり、国語の授業以外に日常的に作文や日記を書かせたりしている学校も多いと聞く。しかし、子供たちを管理・指導するという従来型の評価枠や、大人(教師)=読む人・評価者・管理者、児童・生徒=書く人・被評価者という関係性に囚われない時空を子供たちの日常生活のどこかに確保し、その時空において大人と子供が対等な、一対一の関係に立つことによって初めて、内発的な動機づけに基づいた豊かなコミュニケーションの世界が拓かれていくのではないかと私は考える。
人は、自分が本当に言いたいことを誰かに伝えるために、自分の持てる力を発揮し、場合によっては持てる以上の知恵と表現力を駆使しようとする。その瞬間こそが、その個人にとって最も大きな言語学習・言語産出能力発達、相互理解に繋がるコミュニケーションの好機となるに違いない。そのような貴重な瞬間を教育現場のどこに創出するのかが、今、日本の教育に関わる全ての者に突きつけられた火急の課題である。
*1 一冊のノート交換を一定期間継続させることによって学習者と教師が日本語を媒介に、信頼関係の形成、対話的関係性の構築を図りながら、文化的相互理解の深化を目指す教育活動を「ジャーナル・アプローチ」という。ここでの「ジャーナル交換」とは、そのノート交換のこと
*2 文部科学省が2002年4月、全国の小・中学校に無償配布した道徳の副教材。
くろしお出版による教育情報サイト
